ゼニター16mmのテストをしたのは、福岡県小郡市福童にある大中臣神社。
そこに『将軍藤』と呼ばれる見事な藤の古木があります。

何ゆえ将軍藤かと申しますと… ここから先は少々長ごうございますので、歴史に興味の無い方は、華麗にスルーして下さい。
日本史上、三大合戦と言えば「関ヶ原の戦い」、「川中島の戦い」は誰しも知るところですが、三つ目の「筑後川の戦い」はあまり有名ではありません。
時は南北朝時代、延文4年(1359年9月29日)筑後川をはさんで足利勢の少弐父子、大友氏ら率いる北朝側6万と、後醍醐天皇の皇子懐良親王、菊池武光らの南朝側4万がこの近辺で激突、筑後川を背に背水の陣を敷いた手数に劣る南朝側が勝利しました。
戦いは苛烈を極め、両軍合わせ2万5千が討死したとされます(諸説あり)
この戦で深手を負った懐良親王(かねながしんのう/かねよししんのう)が、ここ大中臣神社のご加護を得て全快することができたとして、お礼にこの藤の木を奉納されたと伝えられています。
南朝側が陣を張った場所は、今も久留米市宮の陣として、菊池武光が太刀についた血糊を洗った場所は大刀洗として地名に残っています。
樹齢約600年、根元周囲3メートルもあり県の指定天然記念物になっています。 藤の木がこれほどの長い寿命があるのにも驚きですが、一本の藤の木がテニスコート程の広さにも枝を延ばし、毎年この時期には多くの参拝客が訪れます。

小さな神社なのですが立派な楼門があり、右手に将軍藤が見えます。
神社の側に来ただけで、えも言われぬ濃い藤の香が辺りに漂います。
この懐良親王、随分と気骨のあった人物らしく、次の様な逸話が残っているそうです。
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当時中国の明は九州・朝鮮沿岸部に出没する海賊、倭寇に悩まされていた。
1369年、明の太祖洪武帝は、大宰府の懐良親王のもとに、明への朝貢と、倭冦の禁圧を求めてきた。
「日本は明にたいして、臣従を誓うか、それとも反発するか。もし今後も倭冦が暴れれば、征め入るぞ」
これに対する懐良親王の返事は次のようなものであった。
「この世界にはいろいろの国があり、それぞれの国に元首がある。
それらの国が自分の分を守っておれば、世界は安定する。
世界は世界の世界であって、決して一人のものではない。
わが国は貴国から遠く離れた小国である。
それに対して貴国は大国である。
それもなお不満で、他国を攻め滅ぼそうとする気持ちを起こしたら、
易の道に反することになる。
かつて貴国には、堯・舜のような徳の高い王があり、
湯・武のように仁政を施す王があって、よく治っていたではないか」
「もし明国がわが国に対して戦を挑むならば、わが国は小国なりといえども防備の手段を持っている。
わが国は孔子・孟子が書いた文章を知っているし、孫子・呉子、六韜三略の兵法を心得ている。
もし国境に追ってくれば、迎え撃つ用意がある。
どうして屈服などしようか。明に屈服しても生きのびてゆけるかどうか判らない。
また明と戦っても、必ずしも敗れるとは限らない。
むしろこちらから進攻して(中国の鬼門である)賀蘭山前で決戦し、すごろくでも楽しもうではないか。
自分は決して明国を懼れるものではない」
「もしわが国が、明国と戦って敗れれば、貴国は満足するであろう。
もし小国の日本が勝ったとしたら、むしろ恥かしいくらいだ。
重大なことは、戦争をしないことだ。昔から戦争をしないようにすることが上策とされ、
戦争を早くやめることが強策とされている。
人民たちに苦しみをなめさせないようにしたいものである」
この懐良親王の手紙を読んだ明の洪武帝は、怒気を顕わにしたが、
かつて蒙古が遠征して失敗した先例もあるので、終に出兵することをやめた。
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格好良すぎワロタw
この後親王は洪武帝より「日本国王」として正式に冊封をうけますが、すぐに北朝の今川貞世に追われ亡くなります。
南北朝を合一した足利義満は、どうしても明との貿易の富が欲しいのですが、明から先に冊封を受けた日本国王の敵と看做されて苦労します。
義満は公家達が眉をひそめる程の臣従外交を展開し、朝貢形式で日明貿易の許可を得ます。
翻って我が国の現状を見るに如何でしょうか-
このお話を知って目にする将軍藤は、また一味違う花に見えてしまうのでした。

このあたりの話は北方謙三さんが『武王の門』に書かれているそうです。
読んでみたくなりました。
↓どちらか一押ししていただけるとうれしかです待(゚Д゚)
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コメント
さとう
「日本三大なんたら」というのは、どうも三位が曖昧なものが多いですね(^^;)
星関係では「日本三大七夕」は1位仙台、2位平塚までは確定しているみたいですが、3位は愛知県安城や同じく一宮、関東地方にも自称3位が並立して、よくわかりません(^^;)
南北朝時代は、流動的というかダイナミックで面白いんですが、いまいち人気がないですね。皇室も南北2つどころか実際は4つくらいに分裂して、あの一休さんもそのどこかの皇子さまの一族だったりしますから…
2011/05/08 URL 編集
にしん目かたくちいわし
確かにそう言われてみると曖昧なものが多いですね。「自称」が乱立してますね。
安城の七夕はよく聞く気がします。
>皇室も南北2つどころか実際は4つくらいに分裂して、
そうだったんですね。はじめて知りました。一休さんが偉い人だったのはどこかで聞きましたが。
南北朝時代って人気ないですね。学生時代日本史勉強しててもこの辺りから急に面白みがなくなる気がします。
戦国時代になるとまた面白くなるのですが。。。
2011/05/09 URL 編集